テルのタイピング記

タイパー・テルによるタイピング記(旧ブログ -> http://uta202.blogspot.com/)

Sense and Sensation ~タイピングって何? タイピングの何が好き? を考えるためのフレームワーク~

この記事は、たのん さん主催 タイパー Advent Calendar 2021 に登録しています。

昨日(12/19)の記事は、TEA_R@xan さんの 中学校生活でタイピングは役に立つのか?(予定。現在執筆中とのこと) です。

明日の記事は、もきらー さんの 歌謡タイピング劇場トリセツ(予定) です。

 

まえがき

「え、タイピングが趣味? キーボードの早打ち?」

 

「それ、何の意味があるの?」

「なんか地味だね。何が楽しいの?」

 

たまに、こんな質問をされるタイパーがいるみたいですね。

これ、煽りとして言われる場合*1は別として、わりと興味深い質問だと思います。

 

「タイピングの『意味』って何だ?」

「タイピングの『楽しさ』って何だ?」

 

タイピングを楽しむ中で、もしくは、タイピングのことを誰かと話したりインターネットで調べたりする中で、あなた自身、上記のような疑問を持ったことがありませんか?

もしくは、誰かの語る「タイピング」のかたち・・・あり方・・・に対して、「タイピングってそういうもんじゃない」とか「そんなのつまんねーだろ」とか、逆に「そういうタイピングもありだな」とか「それ面白そう!」とか、思ったことはないでしょうか。

 

こういう疑問や感想を抱くことがあるのは、

 

タイピングの「意味」や「楽しさ」についての考え方が、人によって大きく異なる

(もっと根本的には、タイピングって何なのか、についても)

 

ことが理由ですよね。

 

まあ実際は「そんなのどうでもいい、好きだから好きなんだ」でいいんですけどね。とは言え、どういうところが好きなのか、自分の気持ちをもっと知ってみたくないですか? 好きなもののことをもっと知りたい、もっと知ったらもっと好きになる。それは人間として当然のことです*2

また、「何が楽しいの?」と言われて「こういうところが楽しい!」と胸を張って言えるようにしたいですし、どうせなら、相手に「へえ、面白そうだね。何か良いソフトとかある?」なんて言わせたいものです。そのためには、自分にとってのタイピングの魅力だけでなく、自分には刺さらない・・・・・けれど「他の誰か」には刺さる・・・ような答えも用意しておきたいです。そのためには、客観的に、色んな面からタイピングの「意味」と「楽しさ」を見つめてみることが必要だと思います。

 

ということで、タイピングに「意味」ってあるのか? タイピングの何が楽しいのか? そもそもタイピングって何なのか? そんなことを一緒に考えていきたかったのですが……

丁寧丁寧丁寧に考えていくと、ブログ記事 1 本では全然足りないことに気付きました。

 

ということで今回は、「タイピングって何? タイピングの何が好き?」を考える前に、それを「それってあなたの感想ですよね」という部分と「それはあなたの感想ではないですね」という部分に分けたり、タイピングの意義や意味といった理性的な部分と「スゴい!」「楽しい!」といった本能的な部分に分けたり、それらの関係を考えたりと、「タイピングって何? タイピングの何が好き? を考えるためのフレームワーク(上手に考えるための助けになるような枠組み)」を自分なりに提案してみようと思います。

 

一応、あたりまえの確認

もちろん言うまでもなく(言うまでもありませんよね?)、一人ひとりのタイパー*3にとって、タイピングに意味なんて本来は要らないです。だって、趣味ですから。意味が無いといけないなら、それは仕事です。

そして、何が楽しいのかも、別に本来はどうでもいいです。他でもない自分の人生において、「何が楽しいのか」なんてどうでもよくて、大事なのは「楽しいか」「楽しくないか」ですから。「楽しいならやればいい」し「楽しくないならやらなければいい」だけですからね。

この「趣味は個人の聖域であり、自分がやりたいならそれでいい」は絶対の前提としつつ、もっと楽しむために、あえて難しく考えてみよう、という記事です。ということで「タイピングに何の意味があるんだ…… 俺は何が楽しくてやってるんだ……」みたいに深くは考えないでくださいね。

 

Sense and Sensation

ところで、今までなんとなく「意味」「楽しさ」という 2 つの言葉を使い分けてきましたが、これらを「意味」→「頭で考える『タイピングに対する評価』」「楽しさ」→「心で感じる『タイピングに対する評価』」と一般化したいと思います。

「何だそりゃ?」と思うかもしれませんが、これらを意識的に分けて考えていくと、意外と自分の考えがこんがらがっていたことに気付くものです。ここら辺の考えがしっかり体系だっていないと、他の人とタイピングについて話す時、会話が食い違って、平行線を辿ることになったり、自分の主張が理解されなかったりします。

自分自身もそうで、タイピングの話をするとき、何かモヤモヤする、どこか整理されていない、何かが分かっていない、そういう感覚が常にありました。長年タイピングと関わり、色んなタイパー達の感性に触れながら少しずつ考えを深めていくことで、今ではかなり頭が整理されていると感じるので、それを共有してみたいと思います。

 

それでは、一体どういうことなのか、例え話で考えてみましょう。

例え話)"超"乱打タイパー

あなたは「"超"乱打タイパー」の存在を知っていますか? タイプウェルや打トレ(打鍵トレーナー)のようなミス数がどれだけあってもペナルティの無いタイピングソフトにおいて、とんでもないミス数ととんでもない速度を両立するタイパーのことです。

例えば、タイプウェル国語 R では 1 トライアルで 400 キーを打つことになりますが、僕の知っている超乱打タイパーは確か 5 回に 4 回くらいはミス数制限に引っかかる=100 ミス以上を叩き出すと言っていました*4。そうなると、もちろん打ち切ったトライアルも 80 ~ 99 ミス実に 4 キーあたり 1 回近くミスをしている計算です。

ありそうな感想

これに対して、平均ミス率 1~10% くらいのまあ一般的なタイパーから見て、ありそうな感想を適当にたくさん挙げてみます。

  • 「そんなミス多かったらどんだけ速くても意味無いじゃん」
  • 速さを競うソフト*5だし、確かにミス数なんてどうでもいいよな」
  • 「4 キーに 1 回ミスするって、そもそもタイピングと言えるのか? キーボードで実際に文章打つこと考えたら、4 回に 1 回ミスしてたらほぼ成り立たないし…… もはや何がなんだか分からない……」
  • 「記録上は速ければいいんだろうけど、私はミスが多い人はすごいとは思えないな」
  • なんでそんなミスしながら速く打てるの!? すげえ! 一体どんな打ち方してるんだろう?」
  • 「記録上は速いし、特異な技術ですごいと思うけど、俺が目指す方向性とは違うな。」
  • 「自分はミスするとイラッとしちゃうけどな。そんな打ち方で楽しいのかな?」
  • 「ミスを気にせず打つって気持ちよさそう自由っていいよな……」

Sense と Sensation に分けてみる

これ、こじつけみたい(というか実際こじつけ)で恥ずかしいんですけど、今回のテーマである「タイピングに対する評価*6」は、英単語の sense と sensation に分けて、それぞれの多義性(同じ言葉が色んな意味を持っていること)と照らし合わせてみると、良い具合に理解することができます。

原義的な意味と、派生的な意味

sense とは、シックスセンス(第六感)などと言われるように、原義的には感覚機能、つまり五感(目=視覚、耳=聴覚、鼻=嗅覚、舌=味覚、皮膚=触覚)そのもののことです。

sensation とは、sense(感覚) によって実際に捉えられた「熱い」「冷たい」「甘い」「苦い」といった「感じ」のことです。

ただ、今回は、原義的な意味よりも派生的な意味の方を使っていきます

sense の派生的な意味 … 頭で考えるタイピングの評価

これが、今回の記事で言う「意味」≒ 頭で考えるタイピングの評価 です。

  1. 意義、価値、合理性
  2. (辞書的な)意味、語義
  3. 常識、(全体の)意見、(多数の)意向
sensation の派生的な意味 … 心で感じるタイピングの評価

これが、今回の記事で言う「楽しさ」≒ 心で感じるタイピングの評価 です。

  1. (漠然とした)感じ、感覚、気持ち
  2. 大評判、大騒ぎ、センセーション

 

例え話に当てはめてみる

では、上で挙げたいくつかの語義を、今回の例え話に当てはめてみましょう。

  • 「そんなミス多かったらどんだけ速くても意味無いじゃん」

これは、sense の 1. 意義、価値、合理性 の話をしていると分かりますね。タイピングには何らかの意義があって、タイピングソフト自体や、それを使うタイパーのタイピングスタイルも、その意義に沿ったものであるべきだと考える立場からの発言です。この意見に対して補強もしくは反論するとすれば、「タイピングの意義」「意義があるとして、各タイパーはそれに沿うべきか」といった論点になるでしょう。

  • 速さを競うソフト*7だし、確かにミス数なんてどうでもいいよな」

これは分類しにくいですが、sense の 1. 意義、価値、合理性 と、2. (辞書的な)意味、語義 及び sensation 1. (漠然とした)感じ、感覚、気持ち に関わる発言と言えます。まず「タイピング」という大きな枠には意義を感じていません。また、「タイピング」という大きな枠の言葉に共通の語義を見出していません。その反面、「競う」ということそのものを重視しているように見えます。これは「競う」こと自体に意義を見出しているとも言えるし、競うこと自体を楽しんでいる(sensation 1. )とも捉えられそうです。

  • 「4 キーに 1 回ミスするって、そもそもタイピングと言えるのか? キーボードで実際に文章打つこと考えたら、4 回に 1 回ミスしてたらほぼ成り立たないし…… もはや何がなんだか分からない……」

これはタイピングの定義、つまり sense 2.(辞書的な)意味、語義 の話ですね。タイピングって何なのか? どれだけミスしても、途中の過程で目的のキーを押してさえいれば、それでタイピングと言えるのか? 結果として打ち出される文章は、めちゃくちゃなものになっているはずだけど…… そんな疑問です。これについては、現状のタイピング競技の成熟性から言って、個人的な信教レベルに留まる話です。統一的な「タイピングって何か」という理解は無いので、結局、個人が何をもってタイピングとするかの問題です。

  • 「記録上は速ければいいんだろうけど、私はミスが多い人はすごいとは思えないな」

少し感想の毛色が変わってきましたね。これは sense 2.(辞書的な)意味、語義 を客観視しつつ、sensation 1.(漠然とした)感じ、感覚、気持ち から評価する考え方です。つまり、競技の性質としては受け止めるが、個人の感覚としては「すごい!」「シビれる!」「あこがれるゥ!」とは思わないということですよね。これは個人の感じ方ですから、侵すことのできない聖域です。

  • なんでそんなミスしながら速く打てるの!? すげえ! 一体どんな打ち方してるんだろう?」

これも上と同様ですね。「なんで!?」という驚き(もしくは興味や好奇心)、「すごい!」という感覚、どちらも sensation 1.(漠然とした)感じ、感覚、気持ち です。これも聖域ですね。

  • 「記録上は速いし、特異な技術ですごいと思うけど、俺が目指す方向性とは違うな。」

これは 2 つ上の感想と似ていますが、あえて入れました。この人はまず「すごい」という気持ち(sensation 1.)は抱きつつ、目指す方向性は違うと考えています。これは、この人は 「自分にとってのタイピングのあるべき姿」を持っている、つまり自分にとっての sense 2. (辞書的な)意味、語義 を確立していて、それに沿って能力を高めることに嬉しさを感じる(sensation 1. )ということです。

先ほど「タイピングの定義は個人的な信教レベルに留まる話」と書きましたが、それは何も「個人的な信教レベルなので意味が無い」と言いたいわけではないです。むしろ、個人的な信教から個人的な「嬉しさ」「楽しさ」が生まれるという意味で、これも聖域だと考えています。ただ単に、個人にとっては聖域(最重要な事項)だが、他人にとっては無関係(何の価値も持たない)ということです。この両極端な性質を理解しておかないと、話が全く噛み合いません。

  • 「自分はミスするとイラッとしちゃうけどな。そんな打ち方で楽しいのかな?」

これも sensation 1. (漠然とした)感じ、感覚、気持ち の話ですね。しかし、ここでちょっと考えを深めて、この「イラッとする」という sensation 1. はどうして生まれたの? ということを考えてみましょう。

そもそも正しく打つことに意味がある(sense 1.)、正しいキーを打つことこそがタイピングの定義だ(sense 2.)、と考えている(もしくは無意識に感じている)から、ミスをすると「正しいキーを打てなかった=失敗した」と捉え、イラッとするわけですよね。

となると、実は sense 1. や sense 2. によって sensation 1. は影響を受けると分かります。これは実はとても重要なことです。感覚・感性といったものも、理性に引っ張られるということですね。

  • 「ミスを気にせず打つって気持ちよさそう自由っていいよな……」

これは 1 つ上と同じことを、逆の立場から見た感想です。上記のような sense 1. や sense 2. に関する固定観念*8を持っていた人が、それから解き放たれることで「気持ちいい」「快適」「自由」といったポジティブな sensation 1. を得られることもある、ということです。

ただし、必ずしも sense 1. や sense 2. を狭く捉える(自分の考えるタイピングのあるべき姿はこうだ!タイピングとはこういうものだ! という考えを強める)ことが悪いと言っているわけではありませんsense 1. や sense 2. に関して細かい規定を置き、忠実にそれに沿うことができれば、より大きなポジティブな sensation 1. を得られるからです。つまり、戒律の厳しい宗教に入ってしっかり戒律を守れば、快感が得られるというようなことですね。それ自体は個人の聖域なんですが、薬も過ぎれば毒になると言いますので、変に縛られて苦しまないようにしてほしいですし、ましてや他人に押し付けないようにしたいものです。まあ、まとめると、「個人的な sense 1. や sense 2. を持つことは劇物なので上手く使って下さいね」、ということです。

 

sense 3. と sensation 2. はどこいった?

ここまで、sense 3. と sensation 2. が一度も出てきませんでした。これらは少し毛色が違うものです。

ここまでは全て個人の感想・考えだったのですが、ここからは社会の感想・考えです。ちなみに、社会の感想だから重要だというつもりは一切無い*9です。単純に、話を分けて考えましょうということです。

sense 3. 常識、(全体の)意見、(多数の)意向

これは「タイピングって何の意味があるのか(sense 1.)」「タイピングって何なのか(sense 2.)」の社会的な共通理解*10のことです。「社会」のような大げさで複雑すぎるものだけでなく、もう少し小さな「複数の人間の集団」について考えてもらってもいいです。例えば「毎パソ参加者という特定の集団が共有する競技の意義(sense 1.)と競技ルール(sense 2.)の共通理解」などと考えれば分かりやすいと思います。

これ、結構混同しちゃってる人がいるように思います。先ほどの例え話で言えば、「そんなミス多かったら意味無いじゃん」というのを、個人的に思うだけでなく、一般常識のように口に出してしまう人ですね。そのタイピング観が個人的なもの(sense 1. や sense 2. )なのか、共通理解(sense 3.)なのか、もしくはどこまでが共通理解でどこからが個人的なのか、よく考えないと、誰もまともに話を聞いてくれません。

逆に、共通理解が存在する場なのに、個人的なものにこだわるのもおかしい話です。毎パソの話をしている時に、例えば「実際の文章作成ではどうせ推敲や校正といった手順が入るのだから、一次的な入力作業における 1 ミスの意味を大きく評価しすぎるのは違うのではないか」といった問題提起をしたいのであれば、その考え方が現時点の共通理解(sense 3.)とは反した個人的意見であることに注意して丁寧に論を展開しないと、強い反発を受けてしまうでしょう。sense 3. まで昇華されて固定した考え方(明文化もしくは暗黙的に共有された競技の意義やルール)は非常に強力なものであり、そこに異を唱えることは、単なる「個人の感想のぶつかり合い」とは少し意味合いが異なります。

sensation 2. 大評判、大騒ぎ、センセーション

sense 3. が「社会にとっての sense 1. と sense 2. 」であったのと同様、sensation 2. 大評判、大騒ぎ、センセーション とは、「社会にとっての sensation 1. (漠然とした)感じ、感覚、気持ち」のことです。

先ほどの例え話で言えば、超乱打タイパーの存在が可視化された時(太古の昔です)、結構タイパー内で話題になりました。「何だそりゃ」「すげえ」「訳分からん」「ああだ」「こうだ」「どうだ」「そうだ」と、結構タイパー達に波紋を投げかけて、タイパーとしてはその驚きや混乱ぶりを楽しんだり、特異な技術に感嘆したりしなかったり、まあ分かりやすく言えば、楽しんだわけですね。

他にも、例えば RTC が行われ、miri さんの対戦動画やインタビュー記事などがインターネットに公開されたことで、タイパー以外も「タイピングって極めるとこんなスゴいのか!」「俺もわりと速いし出られるんじゃね!?」「私も miri さんみたいに打てたら楽しそう!」などと盛り上がる、つまり楽しめるわけです。これが sensation 2. 大評判、大騒ぎ、センセーション です。打っているタイパー個人ではなく、それに関わる複数の人々が何らかの気持ちを抱くことです。

この sensation 2. に意義や価値はあるか?

これは難しいところですよね。「合理的価値」みたいなものは直接的には*11無いとは思うのですが、そもそも社会(複数の人々)が「楽しい」と思えれば、それはその社会に利益をもたらしているとも言えます。「踊るアホウに見るアホウ、同じアホなら踊らにゃ損」という有名な言葉がありますが、これは「楽しんだもん勝ち」「楽しむこと自体がなんだ」という考え方が、少なくとも日本人の感覚としてある程度受け入れられていることの証明でしょう。

つまり、タイピングの「意味」「意義」という言葉が使われるとき、何故か sense 1. の「合理的価値」的な文脈で語られがちですが、この「みんなが楽しいと思うこと」も本来は価値であるはずなのです。

この考え方に立つと、「ミスが多ければ意味が無い(価値が無い)」といった単純な発言が、いかに一面的な表現か分かると思います。もちろん、偏っているから悪い、とは言っていません。単に論点整理がショボくて誰も耳を傾けないレベル、というだけです。

そんな言い方じゃなくて、ちゃんと論点を整理して、「ミスが多ければ、タイピングの本来の姿(sense 2.)であるはずの文章入力という観点から外れてしまう。それでは個人的にも社会的にも価値(sense 1.)が無い。だからミスが多いタイピングは低い評価にするべきだ。」とか、「タイピングの本来の姿(sense 2.)は文章入力だから、人々はそれに影響されて、速く正確に文章を入力することに『スゴい』『美しい』という気持ち(sensation 1. や 2.)を抱くのだ。競技の魅力(sensation 2. をもたらす力)を増すために、タイピング競技は正確性を高く評価すべきだ」とか言われると、打鍵速度信者も「ぐぬぬ、手強いぞ……」とか「この人とは(最終的に合意に至るかは別として)少なくとも議論する価値はありそうだな」などと考えるわけです。

 

まとめ

ここまでの話をまとめます。

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タイピングに対する「頭」と「心」による評価
  • タイピングの「意味」とか「定義」とか「楽しい」とか「スゴい」という評価や感想は、まず大きく上記のように分けられる
  • これらを分けて考えないと、話が平行線になる
  • これらは全て独立のものではなくて、色々と相互作用している
  • Sense 3. まで昇華されたタイピングの「意義」や「定義(競技のルール)」は強力かつ重要だが、それ故に、個人的な考えを Sense 3. と同一視する人はヤバい
  • Sensation 1. はタイピングに対する心の動き(個人の感じ方)であり、「聖域」だが、それ故に社会的な価値は持たない
  • とはいえ、Sensation 2. になると社会的な価値を持つと言えなくもない。多くの人が楽しめたら最高

 

いや、長々書いてきておいて、こう締めくくるのもどうかとは思うんですけど、「だから何?」感がすごい。いや~~本当、僕としては本心からめちゃくちゃ重要なことだと思ってて、頭の中ではこういうこと(価値観や感性を細かく分析し、見当違いなことに適用して自分の思考をミスリードしたり他人に押し付けたりしないこと)をめちゃくちゃ大事にしてるんですけど、文章にすると、まあ「だから何?」って感じが強いです。

しかもフレームワークの導入しかできてないんで、「じゃあ sense 1. タイピングの意義って何がある(ありえる)んだ?」とか、「sensation 1. タイピングの『楽しさ』って結局どういうものがあって、それは sense 1. や 2. と具体的にどういう影響を及ぼし合うの?」とか、「sense 2. タイピングの定義やあるべき姿 ってある(ありえる)の? これから作るとしたらどう定めるべき? 他の競技はどうやってそれを作ってきたの?」とか、本質的に重要な「論点」たちのことは全然話せていません。今回は本当に整理しただけです。

 

いつか、少しずつこの辺りのことを詰めていきたいものです。応援よろしくお願いします。

*1:つまり「趣味ダッサwww 陰キャ乙wwwww」をオブラートに包んだ表現として言われる場合のこと。いや、そんなことあるのか知らないですけど。まあ、もしそんな風に言われると、思春期のタイパーは落ち込むかもしれません。趣味は個人の聖域なので、他人からどう思われようが気にしないのが人生の秘訣です。

*2:要出典

*3:ここでは、趣味としてタイピングを楽しむ人のこと。職業タイピストはちょっと話が変わります。

*4:だいぶ昔のことなんで、細かい数字はめっちゃ曖昧です。ごめんなさい。実際はだいぶ違うかも

*5:正確には、「タイプウェルの公式ランキングサイト GANGAS は速さを競うランキング(だった)」という言い方が正しい

*6:前述のとおり、タイピングに対して頭で考える評価・心で感じる評価のこと。つまり意味があると思うことや楽しいと思うことなどです。

*7:正確には、「タイプウェルの公式ランキングサイト GANGAS は速さを競うランキング(だった)」という言い方が正しい

*8:固定観念」という言葉自体には別にネガティブな意味を込めてないです。前述のように、個人の固定観念は聖域とも言えるので。ただ、後述しますが、その辺が曖昧なまま、見えない縄に縛られたように苦しんでる人がたまにいるので……

*9:というか、なんなら「個人の聖域として趣味をやってるんで、本来は社会の感想なんてどうでもいい、クソ食らえ」という考え方です。とは言え、それだと発展性が無いですし、相互理解を投げ捨てる感じになっていきますから、一応大人として、社会(というか自分以外の人間)のことも考えましょうね、というだけです。

*10:ほんとの sense の意味は少し違います。「(一般的な)常識」という意味を表す言葉は、本当は common sense ですね。sense の「常識」という訳は本来「(個人の)常識的判断力(一般的な常識に照らして、個人が判断をする力)」といった意味合いです。とはいえ、2 つ目、3 つ目のような「全体の意見」的な用法もあるようなので、ここでは都合上、ちょっと曲解させてもらうことにしました。許してください。

*11:極まって人気が上がれば広告的価値などの色々な間接的価値が生まれてくる、という意味