テルのタイピング記

タイパー・テルによるタイピング記(旧ブログ -> http://uta202.blogspot.com/)

陸上競技のルーツから、競技と現実との関わりを読む

  • 本記事は、タイパー Advent Calendar 2022 - Adventar 12月17日分の記事です。
  • 前日の記事は、pogi さんの「成長できなかった1年で気づけたこと」が予定されています。
  • 翌日の記事は、dqmaniac さんの「多言語タイピングにおけるギリシャ語の強化」が予定されています。

今回の記事では、陸上競技のルーツをさぐる|筑波大学陸上競技部OB・OG会という、陸上競技の歴史に関する興味深い連載記事を紹介します。

それを元に、私のコンプレックス(劣等感)が緩和され、タイピングを含めた「競技」という文化をより広い視野でポジティブに眺められるようになった話をしたいと思います。

まえがき

ぶしつけな質問ですが、あなたには何らかのコンプレックス(劣等感)がありますか? 容姿コンプ、学歴コンプなどなど…… まあ、人間、割り切れない感情が色々あるものです。

タイパーとしての私は、陸上競技コンプ」 でした。

弟が優秀な兄に対して劣等感を持つように、タイピング競技者として、陸上競技にコンプレックスを持っていたのです。

陸上競技コンプレックスとは

「いやいや、陸上競技コンプって何? 聞いたことないよ?」

こう思った方もいるかもしれません。私の感覚を説明していきます。

競技の普遍性

陸上競技(短・長距離走)の場合

こんな場面を想像してみてください。

いま、あなたの目の前に、地球の文字も言葉も知らない異世界人がいます。あなたと異世界人のどちらが上ですか? 100m走で決めてください。

これは簡単です。ストップウォッチを用意して、かけっこするだけです。

もしかしたら、異世界人は三足歩行や一足歩行、もしくはキャタピラのような足(?)を持っているかもしれません。しかし、そうであってすら、100m走で勝負を決めることはできるのです。


次に、こんな場面を想像してみてください。

いま、あなたの目の前に、馬がいます。あなたと馬のどちらが上ですか? 1800mダート走で決めてください。

まあ、実際に走らなくても勝負は見えていますが、これもストップウォッチを用意してかけっこするだけです。


陸上競技の凄さ、分かりますか?

普遍性が非常に高いですよね。(短|長)距離走という競技は、「自らの身体(と靴)のみを用いて移動する」ことが可能なら、平等に勝負できるのです。

タイピングの場合

タイピングの場合はどうなるか、考えてみましょう。

いま、あなたの目の前に、地球の文字も言葉も知らない異世界人と、馬がいます。3者の中で誰が一番上ですか? タイピングで勝負して決めてください。

これでは、勝負することはできません。異世界人は言葉が分からないですし、馬にいたっては、指すら持っていません。


では、地球人が相手であれば、必ず勝負できるでしょうか?

いま、あなたの目の前に、アメリカ人と、ロシア人と、中国人がいます。あなたたち4人は、それぞれの母国語しか分かりません。4者の中で誰が一番上ですか? タイピングで勝負して決めてください。

これも難しいですね。それぞれの母国語で競っても、言語システムが違うため、結果を比較できません。全員が4つの言語でタイピングして、その合計時間を競うのは一つの手ですが、それは別の競技のようにも思えます。


このように、タイピング競技は「誰とでも平等に競い合える」というわけではありません。つまり、普遍性がそれほど高くないと言えます。これは、タイピング競技は「文字や文章を入力する」という行為をルーツにしていることから、言語と無関係に成立することは難しいことが原因です。

私は、「普遍性が高くない競技は、ダサい」と思っていましたから、それがコンプレックスに繋がっていました。

競技の厳密性

陸上競技(短・長距離走)の場合

こんな場面を想像してみてください。

いま、あなたの目の前に異世界人がいます。異世界人はアレフガ◯ドという世界から来ました。あなたと異世界人は100m走で勝負しようとしています。

[審判] よーい、ドン!

[異世界人] ル◯ラ!

[実況] たった今、世界記録が更新されました! 記録は0.728秒、まさに伝説の幕開けです!

これが陸上競技のルール上許されるかは、議論を呼びそうです。

陸上競技ルールブック2022を見たところ、以下の記述(TR17.6)が気になります。

トラックからの離脱

17.6 TR24.6を遵守している場合を除き、レース中に自らの意思でトラックを離れた競技者は、そのレースを継続することを認められず、完走しなかったものとして記録されるものとする。いったんトラックを離れた競技者がレースに戻ろうとした場合、審判長により失格とさせられる。

この記述を根拠に、ル◯ラによる瞬間移動を「自らの意思でトラックを離れた」として、失格を主張する審判員もいるかもしれません。最終的には、瞬間移動のメカニズムが問題になるのでしょうか。

また、MP(魔力)が自分の身体から湧き上がるものなら良いですが、外部から取り込むようなものであれば、ドーピング規定が問題になるかもしれません。そのほか「そもそも、足を使って走れよ」という意見もあるでしょう。


これは、競技の定義が曖昧である場合に起きる問題の例です。

しかし、実際には魔法を使える人間はいないので、このような問題は起きません。本来、「100m先のゴールまで自分の身体で移動する」という定義は、とても単純かつ厳密です。スキップだろうがなんば走りだろうが、なんなら這って進もうが、靴以外の道具や機械を用いなければ、出された記録に文句はつかないでしょう。

タイピングの場合

タイピングの場合はどうでしょうか? 以下のような状況を想像してみてください。

あなたたち4人はタイピング勝負をしました。日本語の課題文が同時に示され、それぞれのPCを用いて文章を生成し、送信するまでの時間の長さを計測しました。

[課題文] 吾輩は猫である。名前はまだ無い。

[競技者A~Dの打鍵列]
※(変)は変換/無変換キー、(E)はEnterキーを表します。
A: WAGAHAIHA(変)NEKO(変)DEARU.(E)NAMAE(変)HAMADA(E)NAI(変).(E)
B: わか゛はいは(変)ねこ(変)て゛ある。(E)なまえ(変)はまた゛(E)ない(変)。(E)
C: WAGAHQHA(変)NEKO(変)DEARU.(E)NAMAE(変)HAMADA(E)NQ(変).(E)
D: わか゛はいは(↓)(↓)(E)なまえは(↓)(↓)(E)。(E)

競技者A~Dが実際に打鍵したキー数と、入力環境は以下のとおりです。

[共通事項] IMEの辞書登録は無し
A: 41キー, ローマ字入力 + IMEの予測入力は無し
B: 30キー, JISかな入力 + IMEの予測入力は無し
C: 39キー, 拡張ローマ字入力AZIK + IMEの予測入力は無し
D: 18キー, JISかな入力 + IME (Google 日本語入力)の予測入力を利用

さて、この4人の記録(送信までにかかった時間)は、単純比較できるでしょうか? それは、この勝負を行う際に取り決めたルール次第です。 ルールが厳密に定められていたのであれば良いですが、もしルールに曖昧な部分があったのであれば、順位をつけられません。

とは言え、こういった入力環境の違いについて、厳密なルールを策定することは難しいです。少し考えると、考慮しなければならない点は多岐に渡る*1と分かります。


このように、タイピング競技は厳密なルール策定が難しいです。つまり、ちょっと雑なまとめ方かもしれませんが、厳密性がそれほど高くないと言えます。

私は、「厳密性が高くない競技は、ダサい」と思っていましたから、それがコンプレックスに繋がっていました。

陸上競技はどう発展したか?

陸上競技のルーツを探る

こうして陸上競技へのコンプレックスを募らせていった私ですが、落ち込んでばかりもいられません。 コンプレックスに向き合おうとして、陸上競技のルールやその変遷について少しずつ調べていく中で、ある記事に出会いました。

陸上競技のルーツをさぐる|筑波大学陸上競技部OB・OG会

この連載記事は、陸上競技を中心とするスポーツ史学者の岡尾恵市先生によるもので、2018/7/30から2020/10/31まで、実に73回に渡って掲載されました。

見どころ

記事の中でルーツが語られる競技は、短距離走、マラソン、障害物競走等のトラック競技に留まらず、跳躍や投てきなど多岐に渡ります。

これらの競技は全て、明確かつ精緻なルールブックを持つ、高度に洗練された競技であるように見えます。 しかし、記事を読んでいくと、これらの競技も最初から洗練されたものではなかったことがよく分かります。 日常の素朴な動作から競技らしきものが生まれ、だんだんと洗練されていく過程を感じられます。

また、普遍性が非常に高い*2と思っていた陸上競技も、現実世界との関わりの中で、時には恣意的に競技のルールが生み出されてきたことが分かっていきます。


これらの記事の中から、いくつか、特に面白いと思ったエピソードを紹介します。 それらは全て、「競技」という概念や、現実世界との競技の関わりについて、私の認識を変えさせるような影響力のあったものです。

記事の紹介

さて、ここからは実際に、特に面白かった記事を紹介していきます。

興味を持った方は、ぜひ元の記事を実際に読んでみてください。特に、最初から通しで読むと、競技の発展の過程をより生き生きと楽しめると思います!

5, 6 短距離のスタートの方法について

スタートに工夫を凝らす意外な理由

現代的な目線で見てしまうと、「競技のスタート」と言えば高い厳密性を要する分野です。 当然、その発展の歴史というのも、「いかに厳密性を高めるか」の歴史だと考えていたのですが…… 実情は意外なものでした。

初めは、賭けレースを面白くするため、むしろ厳密にしないように工夫が求められたようです。 その後、記録が重要視されるようになって、ピストルや電気計時が発達したのだとか。 確かに、陸上のような実力差がそのまま結果に繋がりやすい競技は、厳密であればあるほど観戦者としては面白くない場合もある、というのは道理です。

スタート方法の発達

クラウチングスタートをする際、今では足を置くためのブロックが利用されていますが、昔はそのような器具はありませんでした。 選手が各自で穴を掘り、それを利用してクラウチングスタートをしていたようです。

しかし、その更に前は、クラウチングスタートは行われていませんでした。つまり、クラウチングスタート用の穴も用いられていませんでした。

となると、クラウチングスタートへの移行は、競技性を大きく変化させたはずです。 というのは、地面ではなく穴の壁を、縦向きではなく横向きに蹴ることになるからです。 それが具体的にどの程度の違いをもたらすか分かりませんが、例えば「AZIKかローマ字か」くらいの差異感はあるのではないでしょうか?

競技性が変わるということは、当然、その過程でクラウチングスタートはありやなしやと、激論が交わされたはずです。 新しいスタート法が許容されていく過程で、当時の陸上界でもタイパーがするのと同じような紛糾があったのかな、などと想像すると面白いです。

7~14 障害物競走等ハードル競争の歴史

ハードル競争や障害物競走の起源が語られます。

王侯貴族の楽しみであった「馬に乗ってのウサギ狩りやキツネ狩り」を自分たちも楽しもうと、競馬場という限られた空間内で平民たちが障害物競争を行ったことが、ハードル競争や障害物競走の始まりだと書かれています。 初めは競馬場内で様々な障害物を乗り越える遊びだったものが、様々な過程を経て競技として抽象化されていったようです。 そして、その抽象化の最終形がハードル競争なのでしょう。

興味深いのは、ハードル競争と比べれば「抽象化の途上」とも思える障害物競走が生き残っていることです。 倒れないハードルと水濠という要素が、ハードル競争との差別化と競技のダイナミックさを、絶妙なバランスで実現しているのかもしれません。

現実的なニーズを持つ行為の「競技化」というものは、一般的に言って「抽象化」の過程だと思いますが、必ずしも「抽象化すればするほど良い」というわけではないようです。 面白いですね。

また、競技としての発展が、ハードルという道具そのものの進化と結びついていることも面白いです。 例えばタイピングの場合、キーボードがNキーロールオーバーに対応しているといないでは競技性が変わってしまいます。 ハードル走においては、安定して立ち、かつ足が引っかかれば適切に倒れるような現代型のハードルの発明がそれに当たるのかもしれません。

15~18 超長距離走と「マラソン競争」の歴史

ラソンは、陸上競技における花形種目の一つだと考える人は多いのではないでしょうか。 また、市民マラソン大会が各地で開かれていることなどから、非常に身近な競技でもあります。

そんなマラソンの起源について問われたら、この記事を読む前の私は「えーと、古代? の…… なんか故事があって……」くらいの答えを返したでしょう。 42.195kmという中途半端にも思える距離が、何らかの故事にちなんでいることだけ知っていた状態です。


この記事の内容は、最大まで要約すれば「古代ギリシャの故事にちなんで、約40kmの長距離走が第1回オリンピックで実施され、マラソンと名付けられた。」ということであり、元々持っていた認識と大きな相違は無いと言えるかもしれません。しかし、私が注目したいのは、そこではありません。

注目したいのは、ここです。

1896年の「近代オリンピック大会」を復興するにあたり、クーベルタン男爵の周辺には開催の意義を理解し、積極的に運営する人はほとんど存在しませんでした。

こうした状況を打開しようと、男爵はパリ・ソルボンヌ大学言語学者で歴史家でもあるミッシェル・ブレアル教授の助言を求めました。教授の提案は「マラソンの故事」の古戦場から、伝令のフィディピディスが息絶えたとされるアテネ市公会堂跡<アクロポリスの北麗にある「アゴラ」という名で呼ばれていた市場>までの距離を実測し、新しく始める「オリンピック大会」にこの距離を走る長距離競走を採用してはというものでした。

詳しくは元記事を参照して頂きたいのですが、つまりは 「オリンピックを行いたいがために、教授に相談してマラソンの故事を見いだし、そこに(悪く言えば)こじつけるように競技をデザインした」 ということです。

こういったあり方は、本来私が嫌っているはずの「現実的なニーズがまずあり、そこに競技が生まれる」構造、つまり「現実が主であり、競技が従である」構造にも見えます。しかし、登場人物の熱を感じるこの記事を読んだ私は、そうは感じませんでした。

私が感じたのは、以下のようなことです。

  • ラソンのような陸上競技界の優等生(?)ですら、現代ほどの地位を獲得するまでには、故事を利用して「現実と競技を結びつけること(私はこれを、現実接点マーケティングと呼んでいます)」を必要とした!(いわんや、タイピングが競技として成り立つためには、現実接点マーケティングを必要とするのは当然である!)

私は常々、現実の文章生成と競技を混同して、競技成果の評価に勝手なノイズを交える人たち*3に対して、なぜ全く別の無関係なものを混同するんだろう、と考えていました。

また、そういう人たちがあまりにも多くいるので、どうして競技と現実の本質的な無関係性について理解を得るだけのことがこんなにも難しいのだろうか、この世界はどうなってるんだ、つらい、つらい、といつも部屋の隅で体操座りをしながら枕を殴っていました。

しかし、マラソンですら現実接点マーケティングを必要としたことを目の当たりにして、なんというか「ああ、世界はそういうもんなんだ」という納得がいきました。

もっと言えば、世界が望む形でないことについて悲観したり愚痴を垂れているだけではなくて、クーベルタン男爵のように行動しなきゃ駄目なんだ、と偉大な先輩から反省を促されたような気持ちになりました。


……先ほどの文章は、私の中の、幾分かはマシな社会性を持つ部分が抱いた感想です。私の中の社会性が低い部分は、次のようにも感じました。

  • そうか、現実が競技を規定・抑圧するだけではないのだ。競技を推進したい側が、現実接点マーケティングを利用して大衆を扇動できるのだ!

ラソンの場合は、事実こうだったのです。クーベルタン男爵は、現実接点マーケティングを利用して大衆をアジテートし、競技に都合の良い展開へ誘導したのです!

こうなってくると、世界の構造についての見え方は、正反対の様相を呈してきます。大衆が競技を抑圧するのではありません。大衆は、その無理解さゆえに、競技に利用されるのです! ザマーミロ!!!

もちろん、社会に害をもたらすような扇動は避けるべきでしょう。そもそもクーベルタン男爵がやったことも別に悪いことではありません(むしろ善いとされる行いでしょう)。ただ、いつも私が持っていた、競技が現実の下に置かれているような、抑圧されているような感覚が、この発想の転換によって引っくり返ったことと、その喜びを伝えたいのです。

19~22 駅伝競走の歴史

こちらの記事も、マラソンの例に勝るとも劣らないほどの「企画とマーケティングが競技を作り上げた例」です。讀賣新聞社(読売新聞社)の一大企画が始動し、だんだんと具体性を帯びていく過程が描かれます。「驛傳(駅伝)」という名称の決定に至る過程での業界人同士の検討の様子など、非常に興味深い内容が多いです。

また、ダイナミックに競技が具体化していく過程を、こうまで立て続けに突き付けられ、関係者の熱を感じてしまうと、「競技の定義の厳密性」は、私が元々感じていたほどに絶対不可侵とすべきものなのだろうか?という気持ちも湧いてきます。

元々、内心では「いかに競技の定義にこだわっても、結局、競技者と観戦者が楽しくなければ仕方ない」という思いはありました。それに加え、これらの記事を熱心に読んでいくことで、競技を取り巻く文化やコミュニティ全体の「熱」とでも言うべきものは、どうにもバカにできない、重要で価値あるものではないか、と感じたのです。

また、翻って、タイプウェルとGANGASに私が感じた魅力も、実はそちらではなかったか、とも思いました。考えてみれば、タイプウェルの競技性は限りなく厳密だとか、限りなく洗練されているというわけでもないはずです。ケチをつけようと思えば、いくらでもつけられます。それでも私がタイプウェルとGANGASによって骨抜きにされたのは、それらを取り巻く文化やコミュニティ全体の熱があってこそだった…… この記事を読んで、そんなことをなぜか思い出しました。

あとがき

今回は、陸上競技をきっかけとしてタイピング競技を考える観点から、特に面白いと思った記事群を3つ紹介させて頂きました。

とは言え、他の記事も全て面白いですので、皆さんも、ぜひ元記事をご覧ください。年末年始の暇な時間にでも、コタツに入りながら通しで読んでみてはいかがでしょうか。正月の駅伝テレビ中継も、ひと味違った気持ちで楽しめるかもしれません。

また、あなたがもし競技タイパーであれば、ぜひタイピングに引きつけて読んでみることをおすすめします。新しい発見があると思います。


記事を読んで感じることは人それぞれだと思いますが、私の場合は、競技の「純粋性」や「厳密性」とでも言うべきものに対しての、強すぎる絶対視(神聖視?)を少し解きほぐすことができました。目の前にある「技術を競うこと」という競技の本質ばかりに目が行っていたところを、それを取り巻く環境や、その歴史的積み重ねに対して、前以上に目を向けることができるようになった、ということかもしれません。

その他には、「競技やそれを取り巻く文化は、主体的に作っていくものなんだ」という覚悟を、歴史の重みから受け取ったような気がします。

そういった気持ちの変化が、Typing (is) Nonsenseの製作とランキング運営によって新しい競技を定義する試み*4や、Keyboard Input Hackathonの開催によるキーボード関連コミュニティの交流活性化への挑戦などに繋がっています。今後も、先人に恥じぬよう…… いや盛りすぎか。それは厳しいです。えー、先人の足元くらいには辿り着けるよう、頑張っていきたいと思います!

*1:例えば、物理(ハードウェア)的なキー配列、論理(ソフトウェア)的なキー配列、打鍵された論理キー列を確定前文字列に変換する仕組み、確定前文字列を確定後文字列に変換する仕組み、などなど……

*2:ゆえに現実世界からの競技としての独立性が高い

*3:例えば典型的には、正確性の必要の無い競技の成果について正確性を評価するとか、速度の必要のない競技の成果について速度を評価するとか、変換の存在しない競技について唐突に変換機能の話を始めるとか

*4:今回の記事では、競技の定義にこだわりすぎなくてもいいと思い始めたと言いました。その気持ちと反するようではありますが、それはそれとして、一つの思考実験(文化実験?)やひねくれたエンターテインメントとして、尖った定義にこだわる独自の競技を構成するのも面白いと思っています!